映画ティファニーで朝食を観て

映画「ティファニーで朝食を」の感想

※この作品を見たことある人(読んだ人は別)、僕の感性に興味がある人は是非読んでください。

はじめに

①小説や映画のレビューをする際、当時の現実社会での社会的背景や、作者自身の経歴を踏まえ作品を読み解くことをするが、それだと、作中の人物の人間ドラマの与える感銘が薄れてしまうので今回はしない。

②長々とレビューをすると読まない人が多いが、このレビューは私を知ってもらいたい人に私を深く知ってもらいたいという意図で、長くはなるが分かりやすくまとめていきたいと思う。

本編説明

はじめに、元々オードリー・ヘップバーンが好きで高3の頃に小説で読み感銘を受けたカポーティの「ティファニーで朝食を」を4年前経った、21歳の今読んでみた。

この話は、ラブストーリーにカテゴライズされるが、「人間とは?」という部分の深層心理、哲学的要素が強くヒューマン系の要素も大きい。

作中の主要人物は、すばり、主演オードリー・ヘップバーン演じるホーリー、ジョージ・ペパード演じるフレッドの二人だけと言っていいだろう。

二人の人物像を簡単に言うと、
ホーリーは「野生動物を愛してはいけない。羽の折れた鳥を助けてもすぐどこかへ飛んでいく。人は誰の所有物でもない」と言う考えを大切にする、恋多き遊び人の娼婦。(少々哲学的考えを好む)

フレッドは、ベースは真面目だが、堅くはなく、お人好しで人を好きになりやすい小説家(ピュアで少々子供な面もある)

二人は、同じアパート同士ということで、居合わせたことから物語は始まる。

最初は、フレッドはプラトニックではあるが、ホーリーにたぶらかされ、ピュアなフレッドは単純な愛欲としての恋愛で、彼女を好きになる。

一方、ホーリーは男の人を虜にさせるが上手く、また愛情に満たされることで自分を満たしている。
作中としても恋多き女性として用いられる。


ここで面白いのが、(フレッドは鋳型に当てはまりそうな男だか)、ホーリーの面で面白い部分がある。
それは、男の人を虜にするのが上手い女性として、ホーリーが違うのは、ホーリー的には彼女のその都度の男を本気で愛していたことだ。(ここが重要となるポイント)
作中で、たくさんの男をたぶらかす為、周りからは詐欺師と称されるが、本質的に騙す「邪心」が彼女にないことが印象づけられた。

フレッドの作家としての成功や、ホーリーとの飲み付き合いなど、時間を経て本当にフレッドとホーリーお互い惹かれていく。

作中では、4分の3までは、ホーリーとフレッドの恋愛劇で展開するが、いきなり突拍子もなくホーリーはブラジルの資産家と結婚すると言う。
以前にも彼女はお金のある男性に執着する傾向があった。
(驚く視聴者は多いと思うが、自分も野生動物と同じだと主張するホーリーには自然なことだと私は推測は出来た)

たぶん、この映画における彼女のアイデンティティは「人間は誰の所有物でもなく自由に生きること」であると考える。


小説では、ホーリーとフレッドの恋愛劇の後、気が変わったホーリーは、ブラジルに住む資産家の彼を追って、空港へと向かい、ホーリーとフレッドとはその道路までタクシーに同席し、ニューヨークを離れる際、ホーリーの愛猫を「あなたも私の物ではない、出てって」と言ってタクシーから放り出し、フレッドがその猫を追うシーンで話は終わる。

だが、映画では違った。

タクシーの中で、フレッドが「僕はあなたを愛している。君はわたしのものだよ。どこにも行かせたくない」と言ったあと、ホーリー
「私もあなたを愛している……でも、人間は誰の所有物でもないのよ。この猫もそう。だから名前を付けていない。私はそういう人間。理解して。」
その後、猫を放り出した。

その後、フレッドは「自分は誰のものでもないというのは逃げだ。お互い所有し合うことで幸せが手に入る。人間はそうし合うんだよ。君は自分という檻を作って愛を恐れてる。ブラジルに行ったってテキサスに行ったてそれは着いてくる」
そして、必要なくなったと、ティファニーで作ったホーリーへの指輪を彼女に渡し、猫を探す。

その後、ホーリーは少し考え、急いでタクシーを降り、放り投げた猫をフレッドと共に探し、猫を見つけ、ホーリーとフレッドは熱いキスをする。
そして物語は終わる。



本編を包括的に見ての見どころ

①ベットシーンがない
本編は娼婦、愛人、自宅での酒パーティー、マフィアなどが出てくるが、一切ベットシーンがない。
(正直、途中まで見ていて恋愛劇に、そのようなシーンがないことが不満だった。笑)
だが、これも意図したことなのだろうと最後のシーンを観て思った。
理由は最後のキスシーンが本当に美しい。言うならプラトニックラブ(精神恋愛)の象徴のような演出なのだろう。
ベットシーンがあったら変わっていただろう。

②小説と違うエンディング
小説では愛しきフレッドから離れ、ただただ自由に生きる女の美しさの物語だった。
映画での、エンディングを変えるまでのストーリー展開。本当に本当に本当に驚いた。笑笑

僕が思うに、フレッドに最後のホーリーを説得させた言葉を言うほどの能力はあったか?と考えると微妙なのでは?と思う。

たぶん、僕が思うにこれは、カポーティ言語化出来ないホーリーの葛藤を透明にする物を見出したのではないかと思った。




自分の人生と対比して

まぁ、自分もホーリーと同じように、ユーラシア大陸を覆うほどの交友関係があり、自分とは肌の色も言語も気候も違う女性と付き合ったことがある。笑


ホーリーの性格はヨーロッパ人女性に多いなぁ。笑

本当にホーリー見たいに最初偽名で付き合わされて、「あなたのことが好きだけど、私は私の人生があるわ。あなたの声は何も聞こえない聞かない。」と言って離れた子がいたなぁと。

今は全く、見知らぬ誰かになってしまったけど、フレッドのように背中を押したら今どうなってたんだろうと思う。

でも、突然振られたショックと「こーゆうやつだったのかよ」感が強すぎて。フレッドみたいには行かなかったな。笑 いずれも自分本位なので、相手を見据えられる程の器がその子との関係にはなかったのかなと思う。笑

そういう意味で、今は好きな子の有無は勿論公言しないが、居たとしたら、俺たち付き合ってるの?くらいの関係性でいきたいなぁと。←なんの報告だよ

精神恋愛っていいね。笑笑


映画について総評

私は美しさに芸術的価値を感じない人間だったので、今まで洋画を嫌煙していたが、この映画は本当に美しく素晴らしかった。

ただオードリーが可愛いだけと言われがちで評価の低い映画だが、あまりにも何気ない一言、過去から読み取る心理が難しくて、表面しか見れない人が多いのかなと思う。
物凄い細かいところまでいくの、愛着障害とか色々読み取れるよ。笑

やっぱり一番は愛って美しいなぁと感じました。笑



最後まで読んでくれてありがとう。f:id:nittexi:20190105003753j:plain